草薙龍瞬『反応しない練習』の合理的な考え(原始仏典)をまとめてみた

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著者の草薙龍瞬さんと同じ奈良県出身の

こんにちは、そらいろ代表の坂本龍生(さか兄)(@ryusho_sakamoto)です!

 

著者情報

1992年10月生まれの31歳。奈良県在住。

(これまで)
小中学時代にいじめられ、
高校時代に武道を始めるが体を負傷、
自分の体や家族のために栄養士に。
就職すると、パワハラで退職、
起業すると、体故障、金銭トラブル、一家離散、最終的には精神障害に。
 
(これから)
「健康的な毎日から夢が生まれる」を信念に、現代人の健康を支えることをミッションとする
 
(現在)
自身の経験を活かして、身体と心の健康を発信中!
相談の予約は、LINEにて
 
【資格・認定】
・僧侶
・栄養士
・ファスティングマイスター
・農家(奈良県認定)
・野菜ソムリエ
・心理カウンセラー
・ブロガー

『あなたの人生を一撃で改革する』 をテーマにして、 健康、生活、食、心理、人間関係のテクニックを、 実践的ステップやワーク方式で発信しています。

Amazonレビュー1万件超えのベストセラー『反応しない練習』をまとめました。

この記事でわかること

1章 反応する前に「まず、理解する」

道を生きるものよ、生きること(1)は苦しみなのだ。老いること(2)、病にかかること(3)、死(4)は、苦しみである。厭わしい者と出会うこと(5)愛する人と別れなければならないこと(6)も、苦しみである。求めるものを得られないこと(7)、ままならない人間の心(8)もまた、苦しみである。

ブッダ最初の説法 マハーヴァッガ

ブッダが、人間が生涯で体験する悩みを「八つの苦しみ」として表現した。

 

生きることには“苦しみ”が伴う。苦しみには“原因”がある。苦しみは“取り除くことができる”。苦しみを取り除く“方法”がある。

サルナートでの五比丘への開示 サンユッタ・ニカーヤ

“四つの真理”(四聖諦)という。「現実」を見すえて、その「原因」を理解して、解決への「方法」を実践しようという思考法。

 

苦しみが何ゆえに起こるのかを、理解するがよい。苦しみをもたらしているものは、快(喜び)を求めてやまない“求める心”なのだ。

初転法輪経 サンユッタ・ニカーヤ

とらえどころのない悩みにも、確かな解決策が1つあります。それは、「反応を作り出している真の理由にまで、さかのぼって考えること」です。
ブッダが発見した”求める心”には、いわば「反応しつづける心のエネルギー」のこと。人の心の底に、生きている間ずっと流れている意識のこと。
”求める心”は、発生した後、「7つの欲求」に枝分かれする。
7つの欲→①生存欲②睡眠欲③食欲④性欲⑤怠惰欲⑥感楽欲⑦承認欲
①”求める心”が生まれる→②”7つの欲”に枝分かれ→③欲求に突き動かされ、心が反応する→④満たされれば快(喜び)、満たされなければ不満が生まれる

 

”求める心”が、輪廻の洪水ー満たされないさの繰り返しーを作っている。さまざまな欲求が、奔流となって、この身を突き動かしている。人間は、超えがたい欲望の汚泥に埋まっている。

スッタニパータ<戦いの手>の節

”求める心”を作り出す、喜び、悲しみ、失望、不満に満ちた人生を、ブッダは、氾濫するインドの河になぞらえて「激流」や「奔流」と良い例えた。
ブッダいわく、「求めても満たされるとは限らないのが、心である」「反応してもしようがない(空回りするだけで意味がない)」といいました。
「心は求め続けるもの」と理解することだけでも、気持ちが変わる。

 

人は、苦しみの正体について、正しく理解すべきである。苦しみの原因を断つべきである。苦しみのない境地にたどり着くべきである。その方法をこそ実践すべきである。私は確信するに至ったーもはや苦しみに戻ることはないと。

ブッダ最初の説法 マハーヴァッガ

 

三大煩悩の「三毒」

三大煩悩「三毒」①貪欲

貪欲に駆られて求めすぎる人間は、本来力のなかった煩悩に負けて、さまざまな苦悩を背負い込む。あたかも自ら打ち破った舟の穴から、水が浸水してくるように。

スッタニパータ<欲望>の節

①貪欲:過剰な欲求に駆られている状態。求めすぎ、期待しすぎ、焦り。
人間関係のをめぐる不満の殆どは「求めすぎる心」から来ている。

 

三大煩悩「三毒」②怒り

よく注意して、落ち着きを保っている人は、怒りによって、行いが、言葉が、思いざわつくことを、よく防いでいる。かくして、心の自由をよく保っている。

ダンマパダ<怒り>の章

②怒り:不満や不快を感じている状態。イライラ、機嫌が悪い、ストレスを感じている。
”求める心”がある人間の人生には、「怒り」はついてまわるもの。
怒りは、正しく理解して、心を静めるように心がける。
明らかに怒りがあるのに、放っておくとそれは「もったいない」(人生を損している)と考える。
怒りは蓄積され、放置された怒りは、怒りっぽさや、欲求不満、気難しい性格となって、年をとるごとに表面に現れてくる。

 

三大煩悩「三毒」③妄想

③妄想:想像したり、考えたり、思い出したりなど、頭の中でぼんやりと何かを考えている状態。
一番厄介で、一番悩みになりやすい。
リセット方法「ラベリング」
妄想を抜ける練習▶①目を閉じて、何かを思い浮かべる→②眼の前の景色をしっかり見て、見えている状態を意識する→③「①で思い浮かべたことは妄想だ」と意識する。

 

正しい理解

正しい理解≠自分が正しいと考えること、自分流の見方・考え方で理解する。

正しい理解=判断や解釈を一切排除して、ありのままに、客観的に、主観抜きのニュートラルな目で、「ある」ものを「ある」とだけ見据えること。

 

人は”求める心”によって、苦悩を見る。ゆえに汝は、”求める心”を、正しい道(方法)に立つことで手放せ。そして再び”求める心”に執(とら)われて、苦しみの人生に舞い戻らないようにせよ。

スッタニパータ<彼岸への道>の章

「正しい理解」によって、人は自由な心を取り戻せる。

 

2章 良し悪しを「判断」しない

人はムダに判断している

目覚めた者は、人が語る見解、意見、知識や決まりごとに囚われない。彼は、善し悪しを判断しない。判断によって心を汚さない。心を汚す原因も作らない。ブッダは、正しい道(方法)のみを説く。かくして「わたしが」という自意識から自由でいる。

スッタニパータ<心の清浄について>の節

人が悩む理由の1つは、「判断」にある。
判断とは、値打ちがあるとかないとか、優れているとか劣っているなどの「決めつけ」「思い込み」のこと。
ムダな判断をしなくなれば、心はすっきりと軽くなり、人生はスイスイと渡りやすくなる。

 

人は三つの執着によって苦しむ。
①求めるものを得たいという執着(だがかなわない)。
②手にしたいものがいつまでも続くようにという執着(やがて必ず失われる)。
③苦痛となっている物事をなくしたいという執着である(だが思い通りにはなくならない)。 
ではこれらの苦しみが止むとは、どのような状態なのだろうか。
それは、苦しい現実そのものではなく、苦しみの原因である”執着”が完全に止んだ状態なのだ。

サルナートでの五比丘への開示 サンユッタ・ニカーヤ

人が苦しむとき、そこには必ず「執着」がある。
本来心は、サラサラと流れる小川のように、苦しみを残さないはず。執着するために、滞り、苦しみを生んでいる。

 

道を生きる者は、灯火をもって暗室に入るかのごとく、光明をもって人類の闇を抜けるであろう。 道を得るとは、智慧の光ー正しい理解と考え方ーを得ることであるから。

四十二章経

財産や容姿は不変の宝ではない。求めるものは得られぬことが多い。 しかし、道だけは心のままである。これを実践すれば、心を害するものは何もない。

遊女アンパパーリへの励まし マハーパリニッバーナ・スツタ

道:苦しみを取り除く方法のこと。
「苦しみを生んでいるものを手放す」と決意し、実践することこそ、「道を生きる」という生き方。
人の苦しみから自由になり楽になりたいと願うことは、人生の目標にできる。

 

“慢”という病気

判断基準→①真実であること②有益であること

①真実は賢者にしかわからないため、②を優先的に判断するのが現実的。

 

「自分が」「あの人が」という思いが、”心に刺さった矢”であることに、人は気づかない。正しく見る者に、苦しみを繰り返すこだわり(自意識)は存在しない。

ウダーナヴァルガ<観る>の章

 慢:人を苦しめる「判断」で、「自分は偉い/正しい/優れている」と肯定しすぎていること。

 

人間関係は、「真実」「有益」であればいい

私が言葉を語るのは、相手に利益となる場合である。 真実であり、相手に利益をもたらす言葉であれば、ときに相手が好まない言葉であっても、語るべきときに語る。それは相手への憐れみ(慈悲)ゆえである。

アバヤ王子との対話 マッジマ・ニカーヤ

ブッダの判断の基準は、「真実であり、有益である(役に立つ)」=慢にならない判断

 

ある都市の王が、宮殿に生まれつき盲目の人たちを集めて、象を触らせました。ひとりには象の鼻を、ひとりには象の足を、ひとりには象のしっぽをと、象の一部だけを触らせて、「では、象とはどんなものか言ってみよ」と命じたのです。するとひとりは、「犂の長柄のようなものです」と答え、ひとりは「石柱のようなものです」と答え、ひとりは「箒のようなものです」と答えました。ほかの部分を触った盲人たちも、めいめいに「象とはこんなものだ」と主張して、「お前は間違っている!」と、殴り合いのケンカを始めました。その光景を見て、王は大笑いしました。

市街サーヴァッティでの説法 ウダーナ

人間というのは、一部しか見ていない。
そもそも立っている場所も、見ているものも全く違うにも関わらず、全てを理解した気になっている。
人と人が関わるときには、必ず「違い」が出てくる。

 

正しく理解する者は、「自分が正しい」と思うこと(慢)がない。 だから、苦しみを生み出す「執着の巣窟」(わだかまり)に引き込まれることはない。

スツタニパータ<あるバラモンとの対話>の節

ブッダがいう「正しい理解」とは、「正しいと判断しない」ことを理解すること。
人間関係は、妄想から生まれる”慢”に侵されるより、ただ「真実」「有益」であれば良好な関係が築ける。

 

ムダな判断をなくす練習

ムダな判断をなくす練習①判断したことに気づく

人は自らの心を整えず、あれこれと判断して、心を失っている。 あちこちに目をやって、一体何の役に立つだろう。 自己にこだわる意識を抑え、人の評価を追いかけずに、自らの心の内をよく見るがよい。

長老クマーブツタの修行仲間の言葉 テーラガーター

ムダな判断をなくす練習②「自分は自分」と考える

それではチュンダよ、このように考えて、自らを戒めよう。 荒々しい言葉を語る人もいるかもしれないが、わたしは荒々しい言葉を語らないように努力しよう。 自分の考えに囚われる人もいるかもしれないが、わたしは自分の考えに囚われないように心がけよう。 間違った理解や思考を手放せない人もいるかもしれないが、わたしは正しい理解と思考が身につくように頑張ろう。 見栄やプライドにこだわる人もいるかもしれないが、わたしは見栄やプライドから自由でいられるように精進しよう。 自分をよく見せたがる人もいるかもしれないが、わたしはありのままの自分で生きていくように努めよう。

チユンダへの諭し スッレカ経 マッジマ・ニカーヤ

ブッダの考えは「世間にはこういう人もいるかもしれないが、わたしはこうしよう」です。
ポイントは、他人と自分との間に、きっちり線を引くこと。

 

ムダな判断をなくす練習③素直になる

「方向性を見る」とは、仏教でいう「正しい思考」と呼ばれる教えの1つで、「自分のこれからの方向を見ること」

 

判断を止めれば、人生は流れ始める

過去の汚れを捨てて、新たな汚れを作らない。 智慧にめざめた人は、思い込みから自由になって、自分を責めることをしない。 心の内側も、外の世界も、よく理解するがよい。 ただそれによって自分の価値を測ってはならぬ。 その思い(判断)は、よろこびにつながらないからである。 「自分は優れている」とも、「劣っている」とも、「等しい」とも判断するな。 さまざまな言葉を受けても、自分の価値を判断しないようにせよ。 さまざまな煩悩(評価・計らい・判断)が消滅した境地こそが、よろこびである。 その者は、すでに勝利している。他者に負かされることは、もはやない。

スッタニパータ〈論争について〉〈速やかな成就〉の節

「過去を引きずる」(過去を理由に自分を否定する)こと自体が、妄想すること、判断することにあたり、心の煩悩、邪念、雑念にあたる。
正しい理解をするなら、失敗をありのままに捉え、「今どうするか?」だけ考える。
失敗に、落ち込み、へこみ、自責、悲観しない。
この考えを使って、「間違った自信」から脱出することができる。
間違った自信とは、①「自分ができる」と思いたい”慢”、②「不安を打ち消したい」と思う”妄想”から求める自信のことです。
間違った自信には、共通点があって「不安な現実を埋め合わせたい」と思う気持ち(妄想)から来るということです。
その不安は、過去の失敗からくるものでしょう。だからこそ、失敗をありのままに捉え、「今」のことにフォーカスすることが大切。
正しい自信とは、行動や体験の積み重ねによる”見通し”でしょう。それが無理だったら、謝ればいいと著者はいいます。

 

3章 マイナスの感情で「損しない」

もし罵る者に罵りを、怒る者に怒りを、言い争う者に言い争いを返したならば、その人は相手からの食事を受け取り、同じものを食べたことになる。 わたしはあなたが差し出すものを受け取らない。あなたの言葉は、あなただけのものになる。そのまま持って帰るがよい。

罵倒するバラモンとの対峙 サンユッタ・ニカーヤ

あるとき、プライドの高いバラモンがブッダに誹謗中傷の言葉を浴びせましたが、ブッダは無反応で返した。
ブッダは、食事に招いた人が食事を食べなかったことに例え、言葉を受け取らなかった。

 

これこそが正しいと主張することを、わたしはしない。 見解への執着を、ただの執着であると理解して、他者が陥るあやまちをあやまちとして理解しつつも、囚われることはない。 わたしは自らの心の状態を見つめて、心の平安と澄明さを保つ。

スツタニパータ<あるバラモンへの返答>の節

しなくていい判断は、しなくていい。
余計な判断は、自分には「心に苦痛を溜める」ことになり、相手には「可能性を殺す」ことになってしまいます。

 

あの人は、わたしを罵った、わたしを否定した、わたしに勝利した、わたしは奪われた、と思いつづける人は、(記憶に反応して怒りつづけているのだから)怨みが止むことはない。

ダマンパダ<ひと組の詩>の章

人は、過去の出来事を思い出して、それに反応して、それがまた新しい怒りを生んでしまいます。
そのような「怒り」には、相手には関係ないことです。
大切なのは、過去を引きづらない、忘れること。

 

4章 他人の目から「自由になる」

世界は永遠か、終焉があるか。有限か、無限か。霊魂は存在するか、しないか。死後の世界があるか、ないか。私はこれらのことを、確かなものとして説かない。 なぜならそれは、心の清浄・安らぎという目的にかなわず、欲望ゆえの苦痛を超える修行として、役に立たないからである。 私は、これからの目的にかない、役に立つことを確かなものとして説く。 それは、生きることは苦しみを伴う。苦しみには原因がある。苦しみは消すことができる。そのための道(方法)があるということー四聖諦ーである。

弟子マルンキャブッタへの教え マッジマ・ニカーヤ

本来のブッダの思考(ブディズム)は、「妄想は、追いかけない」という合理的な考えを持っている。
仏教の目的は、「人が抱える現実の苦悩の「正体」を理解して、その苦しみから解放され自由になること」にある。
「妄想」は、①際限がなく、②確かめようのないという特徴がある。
そのため、不必要な「妄想」は切り捨てるべきということ。
大切なのは、「目的」をはっきりさせ、「妄想」なのかどうかを見極めること。

 

無明(無理解)の状態において、心は反応する。刺激に触れたとき、心は反応して、感情が、欲求が、妄想が結生する。結生した思いに執着することで、ひとつの心の状態が生まれる。その心の状態が新たな反応を作り出す。その反応の結果、さまざまな苦悩が生まれる。

菩提樹下の縁起順観 ウダーナ

過去に生まれた(結生した)感情が、新しい出来事に対しても影響して反応してしまうこと。
例えば、外で嫌なことがあってイライラし、返った家でも嫌なことがあれば、反応的に怒るようなこと。(いわゆる、地雷)
地雷(結生した反応)が厄介なのは、分かりづらく、表面的に対処しても効果がないということ。
地雷を取り除くなら、反応の背景や奥にある過去の反応に気づくことが大事。

 

人生は自らの体験に優れた成果を見て、それ以外の者たちを劣ったものと見なす。 それこそが、苦しみを生む執着であると、賢者は語る(理解する)。 自分と他人を較べて「等しい」とも、「劣っている」とも、「優れている」とも考えてはならない(それらは新たな苦しみを生むからである)。

スッタニパータ<最上なる思考について>の節

比較して人より優れていたいのは、「自分の価値」を「よし」と判断したいがため。
しかし比較は、つねに不満が残ります。
比較に不満が残る理由は3つあります。
1つ目、比較相手は、自分が生み出した「妄想」だから。
2つ目、比較しても、自分自身の状況や見方を変えないと、優位に立てないから。
3つ目、比較によって得られる安心は、絶対や完全ではないから。
比較する自分、相手、判断の全てが「妄想」でできている以上、その気持ちが満たされることはありません。
つまりは、全ての比較は、単なる「妄想」で、「暇つぶし」と変わらない。

 

他人の物事のために、自分のなすべきことを捨て去ってはならない。 自分の物事を熟知して、自分のなすべきことに専念せよ。

ダンマパダ<自己について>の章

外の世界を忘れ、自分にとって必要な、役に立つ、一人でできる「自分のモノゴト」に集中して、そのプロセスを自ら納得できることが、人生にとって大切です。
それを、「正しい努力」といいます。
「正しい努力」をすると、ムダな反応が浄化され、心はどんどんクリアになり、集中による充実感と喜びが得られ、あとに「納得」という実感が残ります。
自分の心を見つめるだけで、答えは出ます。

 

5章 正しく競争する

人はけして満たされることなく、何かを貪り、何かを勝ち得ようと望んでいる。 それは、求める心(タンハー)に突き動かされて、心渇いている姿である。

貪りを捨てる人とは サンユッタ・ニカーヤ

欲は、生きているかぎり続きます。
しかし、欲を満たしてくれるものは、数に限りがあります。
椅子取りゲームのように、奪い合うことが競争です。

 

この世界は、闘いと、言い争いと、心配事と、悲しみと、物惜しみと、「わたしがいるぞ」という慢心と、傲慢と、誹謗中傷に取り憑かれている。 やがて必ず喪失にたどり着くさまをみて、私は空しくなった。

スツタニパータ<闘い>と<武器>の節

たとえば受験ですが、受験はまさに闘いの世界です。
誰がより点数を取れるかという「闘い」と、
プライドを守るための「言い争い」と、
点数が取れるか?試験には合格できるか?という「心配事」と、
合格定員の中に入れるかどうか、プライドをなくしたくないという「物惜しみ」と、
他人よりいい点数を取って感じる「慢心」と、他人を下に見る「傲慢」、
そして、他人に悪口をいう「誹謗中傷」
その世界にいる人は、成功という言葉を知りません。
いつも人の目を気にして、どこか臆病で、心渇いしている、そんな人たちです。

 

見える者は、見えなくてよい。聞こえる者は、聞かなくてよい。 よく知る者はこの世にあって、無知なる者としてふるまえ。

長老カッチャーヤナの言葉 テーラガーター

心の内側を見ず、外の世界に反応ばかりしている人は、欲望に流される。 心の内側も、外の世界もよく理解して、煩悩に覆われないクリアな心で見る人は、欲望に流されない。

仏弟子ラクンカタの告白 テーラガーター

外の社会や人間が気になるなら、目を閉じて、反応をしない。
勝ち負けや優越・劣等という判断が苦しいなら、目を開いて、妄想から抜け出す。
競争という名の妄想から受け出すシンプルな方法です。

 

ブッダ・四つの心がけ

  • 慈:相手の幸せを願う心のこと。自分の都合や欲求を通すことなく、純粋に「相手が幸せであるように」と願う心。
  • 悲:相手の苦しみ、悲しみをそのまま理解すること。相手の悲しい感情に共感すること。
  • 喜:相手の喜び・楽しさをそのまま理解すること。相手の嬉しい感情に共感すること。
  • 捨:手放す心、捨て置く心、反応しない心。「中立心」ともいう。たとえば、欲や怒りという反応に気づいて、ストップを掛ける心のこと。

世間で言う「愛」のこと。しかし難しいのは、「捨」。

 

五つの妨げ

道の者よ、迷いに満ちたおのれの心の状態に気づくがよい。そこには”五つの妨げ”がある。 すなわち、①快楽に流される心、②怒り、③やる気の出ない心、④そわそわと落ち着かない心、そして⑤疑い、である。 気づくがよい。このような心の状態では、物事をよく理解することも、正しく考えることもできない。ゆえに苦しみの連鎖は、いつまでも続くであろうと。

若き修行者への訓誡

勝利を目指す努力によって、自分や他人が幸せになることがある。
ただ、順序が大切です。
仏教では「まずおのれの内側に、たしかな勝利を得よ」と考えます。
さらに5つの気をつけるべきこと(5つの妨げ)があります。
①快楽に流される心:五感で感じる快楽に流れる心。いわゆる、娯楽。ポイントは「適度」「心が快を得る上で必要」ならOK。逆に、「ながら」や「つい」など、余計に取ってしまう場合は妨げに当たる。
②怒り:心をざわつかせる、不快、不満、悲しみ、ストレス、他人への悪意などの感情。心は、なるべくムダな反応のない、クリアな状態の方がいいのです。
③やる気の出ない心:眠たい、めんどくさい、楽をしたい、手を抜きたい、疲れ、といった状態。これはこの状態が悪いのではなく、この状態を放置している(対策しない)自分がよくないとうことです。
④そわそわと落ち着かない心:雑念や妄想に取りつかれ、作業が手につかない状態。刺激に反応しすぎてしまっている可能性があるため、刺激を減らす工夫や瞑想なども効果的。
⑤疑い:自分や他人、将来のことを悪く考えてしまう心。自己不信、人間不信、不安など。疑いは「妄想」から来ます。サティ(気づき)を実践して、妄想を消しましょう。
「五つの妨げ」の対処法は、①ネガティブになる反応からは距離を置く、②ポジティブになる反応は意識的に近づく、です。
さらに「五つの妨げ」により、「引かなかったものが、ありのままの自分」がわかります。
人間なので、弱さも、妥協も、快楽や怠惰にも流されて当然です。
大切なのは、当然な自分を自分として受け容れること。

 

人は三つの執着によって苦しむ。 ①求めるものを得たいとう執着(だがかなわない)。 ②手にしたものがいつまでも続くようにという執着(やがて必ず失われる)。 ③苦痛となっている物事をなくしたいという執着である(だが思い通りにはならない)。

サルナートでの五比丘への開示 サンユッタ・ニカーヤ

 

道の者たちよ、たとえば青い蓮、紅の蓮、白い蓮、水の底に生じ、水の中で成長し、水から上に現れれ出て、しかも水に汚されていないように、道を遂げた者は、この世の中で成長し、この世のうちに生きているが、この世に汚されないのである。

サンユッタ・ニカーヤ

人は必ず失敗します。だからといって、負い目を感じる必要はありません。
そもそも、人は根本的に違うため、比較することすら不可能ということがわかります。
間違った「執着」「妄想」にとらわれないために、視覚を閉じて、外の世界と離れましょう。
そして、心の内側に意識を向け、静けさと安らぎ、そして「自分だけの快」を見つけることが大切です。
そうするこで、世の中にいながら、世に苦しまない生き方をして生きていくのです。

 

全ては燃えている。見るものは、燃えている。見る心は、燃えている。貪欲という炎を、怒りという炎を、妄想という炎を上げて、燃えている。心は、苦悩、衰え、喪失、憂いや悲しみ、痛みや煩悶という炎を上げて、燃えている。

象頭山での法話 サンユッタ・ニカーヤ

「燃えている」は、「反応している」ということです。
つまり、心が反応しているかぎり、満たされず、苦悩は続くということです。
”新しい心”をもって、心にたしかな”よりどころ”を持つことで、癒やされる。
よりどころとは、反応している心の一歩手前に置く、心の土台、いわば法・真理・真実みたいなものです。
つまり固定観念や常識みたいなもので、現代心理学では、自動思考(スキーム)みたいなものです。
仏教では、人間が目指すべき法や真理(正しい生き方)のことを、「ダンマ」といいます。
正しい生き方とは、仏教では以下のようなことをいいます。
①反応せずに、正しく理解すること(正見)
②三毒などの悪い反応を浄化すること(清浄行)
③人々・生命の幸せを願って、慈・悲・喜・捨の心で向き合う。

 

汝はもう、何ものにも頼る必要はない。 この世界でただ自らをよりどころとして、他の何ものもよりどころにしない(依存しない・執着しない)ことだ。 正しい生き方(ダンマ)をよりどころにして、他の移ろうもの、人間の思考や言葉にすがらないようにせよ。

アーナンダへの励まし ブッダ最後の旅 マハーパリニッパーナ・スッタ

ブッダは、外の世界に答えはないといいます。
この世界にあふれるありとあらゆる基準は、みな他人の心が作り出したものです。
自分の心と、すれ違う部分があって当たり前です。それにより心の闇や苦悩は生じます。
だからこそ自分自身の心の内側に、奥底に、正しい生き方(よりどころ)を、確立して乗り越えないといけません。

 

ブッダも、ネガティブだった

宮廷暮らしの贅沢も、すこやかなこの体も、人が喜ぶこの若さも、一体どのような意味があるのだろう。肉体は病み、老い、いつか必ず死を迎える。ならば、若さも、健康も、いや生きていることそのものも、一体どんな意味があるというのだろうか?

ゴータマ若き日の苦悩 アングッタラ・ニカーヤ

人は何かを求めて生きている。だが、求めることには、二種類あるのではないか。つまり、間違ったものを求めることと、正しいものを求めることだ。 間違ったものを求めるというのは、老いと病と死という”喪失”を逃れられない人間でありながら、いつまでも老いず、病まず、死なないことを求めることではないか。 正しいものを求めるというのは、この間違いに気づいて、”喪失”を乗り越えた、人間的な苦悩から離れた生き方を求めることではないか。 今の私は、間違ったものを求めて生きているにすぎない。

ゴータマ若き日の苦悩 アングッタラ・ニカーヤ

 

仏教の開祖であるゴータマ・ブッダであろうと、いち少年の頃があった。
といっても、王族の跡取り息子で、生活自体は裕福だった。
普通の人間なら、求める心のまま生きて、人生を終える。
しかし、ゴータマは、「いくら手に入れても、最後は必ず失われる」と残酷な世の中であると考えた上で、新しい生き方を探し始めた。
間違った生き方とは、やがて失うもの(若さ、健康、生命)をただただ追い求める生き方。
そして、現実とのギャップで、苦しむ。
正しい生き方とは、現実に苦しまない心の持ちようを目指す生き方。

 

目指すゴールは「最高の納得」

道の者たちよ、私は”善”を求めて出家した。

ブッダ晩年の回想 マハーパリニッバーナ・スッタ

ここでいう「善」とは、善しと思える心境、疑問や葛藤を抜けた、スッキリと晴れた心の状態のこと。

 

わたしは、老いゆく心へと変えよう。 苦悩する心を、静かな心へ、安らぎへ、最高の納得へと変えていこう。

元墓守りの長老スッピヤの言葉 テーラガーター

私は正しく思考しなかったから、自らを飾り、いつも動揺して、ふらふらとさまよい、欲望に翻弄されていた。 ブッダの巧みな導きにより、私は正しく実践し、求めてさまよう人生をようやく抜け出した。

仏弟子ナンダの告白 テーラガーター

”最高の納得”は”善”とは違い、「苦悩から自由になった心境」のことです。
「納得」というのは、100%主観です。どこにいようと、何歳でもできます。
ブッダが教えるのは、現実ではなく、自分のあり方です。

 

今のわたしは正しい道にいる。 水が一定の方向に流れていくように、わたしの人生も必ず苦悩から抜け出せる。

尼僧パターチャーラーの告白 テーリーガーター

ああ、わたしはようやく水中から陸に上がることができた。 烈しい心に翻弄されていたわたしは、今ようやく真実の道に到達した。

元異教徒の長老の告白 テーラガーター
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そらいろ~心の窓口~

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